日本における大晦日格闘技、そして朝倉未来vsシェイドゥラエフ

日本国内における格闘技は、毎年大晦日の大会が一年の締めくくりであり、その年最大のビッグイベントとなる。

 

これは偶然ではない。

 

歴史的に見ても、大晦日という特別な日に格闘技が置かれてきた意味は一貫している。日常と非日常の境目に、最も強い者、最も話題性のある者、そして最も物語を背負った者が立つ。

 

その構図が長年繰り返されてきた。

 

 

 

源流はPRIDEである。

 

2000年代前半、格闘技が地上波のゴールデンタイムに流れ、家族が同じテレビを囲んでいた時代、大晦日のPRIDEは明確に「年越しの主役」だった。

 

紅白歌合戦の裏で格闘技を見る、あるいは紅白が終わってから格闘技に切り替える。

 

その行為自体が、一年の終わりの儀式として定着していた。

 

 

当時の私は学生で、実家のこたつに入りながら、親に気まずさを感じつつも画面から目を離せずにいた。格闘技は、好きな人間にとっては説明のいらない引力を持っている。

 

 

PRIDE消滅後、日本の大晦日格闘技は一時期空白を経験する。

 

しかし、その流れを継承し、現在に至るまで大晦日の舞台を担っているのがRIZINである。

 

RIZINは単なる後継団体ではない。PRIDEが築いた「大晦日は格闘技」という文化を、現代的な形で再構築している。会場演出、選手の見せ方、試合順の組み方、そのすべてが年末という時間軸を強く意識している。

 

 

この華やかな舞台に、ファイターは誰もが立ちたいと考える。

 

だが残念ながらその場所は自動的に与えられるものではない。

 

年内の大会で結果を残し、観客の記憶に爪痕を残し、実力と人気の両方を証明した者だけが選ばれる。

 

これは明確な競争であり、選考である。

 

私は過去に地方大会を現地観戦したことがあるが、試合後の勝者インタビューで「大晦日に行きたい」と口にした若手選手の目の強さが忘れられない。

 

その言葉には願望以上の覚悟が含まれていた。

 

 

 

こうしたプロセスが存在する以上、大晦日の大会には必然的に強く、そして人を惹きつける選手が集まる。

 

結果として、試合のクオリティは高くなり、物語性も濃くなる。

 

単なる勝敗では終わらない試合が並ぶのが、大晦日格闘技の特徴である。

 

 

今年もその構図は変わらない。

 

 

RIZIN熱視中さんでも、格闘技ファンにとっての風物詩、RIZIN大晦日大会が、今年2025年も開催されますと語られていたが、今年のRIZINは例年以上に象徴的なカードを用意した。

 

朝倉未来とシェイドゥラエフの一騎打ちである。

 

朝倉未来は今年、大復活を遂げた選手だ。一時期の停滞、批判、期待と失望、そのすべてを背負った上で再び大舞台に戻ってきた。

 

一方のシェイドゥラエフは、現在のRIZINにおいて最強と評される存在であり、勢いと実力を兼ね備えている。

 

 

このカードが意味するものは単純ではない。

 

勝者が来年の総合格闘技の主役になる、という表現は決して誇張ではない。大晦日のメインで勝つという事実は、それだけで一年分の評価を更新する力を持つ。

 

私は過去に、大晦日の勝利をきっかけにスポンサーや扱いが一変した選手を何人も見てきた。逆に、負けたことで流れを失った例もある。

 

それほどまでに、この一日は重い。

 

 

朝倉未来にとっては、復活が本物であることを証明する場となる。シェイドゥラエフにとっては、最強という評価を確定させる場となる。

 

どちらが勝っても、そこには次の一年へ直結するストーリーが待っている。乾坤一擲という言葉が、ここまで似合う試合はそう多くない。

 

 

 

大晦日格闘技の魅力は、試合内容だけではない。その日一日の空気感も含めて価値がある。昼間は家の掃除をし、夜に年越しそばを食べ、テレビの前に座る。

 

時計が進むにつれて、試合の重みも増していく。私は以前、録画で見ようとして結果をうっかり目にしてしまい、その年はひどく後悔したことがある。

 

それ以来、大晦日は予定を空け、リアルタイムで観戦するようにしている。

 

 

日本における大晦日格闘技は、単なるスポーツイベントではない。

 

一年の総決算であり、次の一年への起点である。PRIDEからRIZINへと続く系譜は、今も確実に生きている。

 

そして2025年の大晦日も、その歴史に新たな一行が刻まれる。見逃す理由は、論理的に考えても存在しない。

 

 

 

 

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